フィルムカメラを家族写真に使うと話すと、たいてい「不便じゃないですか」と聞かれる。確かに不便だ。36枚撮り終えて現像所に預け、一週間後に手にするプリントは、撮ったときの記憶とほんのわずかにずれている。だがそのずれこそが、この行為の核心にあると、私はだんだん確信するようになった。デジタルカメラは撮った瞬間に答えを返すが、フィルムは問いを宙に浮かせたまま時間を先に進める。その宙吊りの時間のなかで、撮影者は自分が何を見ていたかを反芻し、家族の姿を記憶の中で何度も現像し直す。この文章は、技術の優劣を論じるものではない。「撮る前」という、見落とされがちな時間について書く。
フィルムは撮影の前から始まる ¶
Nikon FM2をカメラバッグから取り出すとき、私はすでに撮影モードに入っている。電池に頼らないメカニカルシャッター、1/4000秒まで切れるチタン幕——そうした仕様の話ではなく、あの金属のひんやりとした感触が、指に「これは消費ではない」と伝えてくることを言いたい。Kodak Portra 160をパトローネから引き出してスプロケットに噛ませる、その三十秒ほどの作業のあいだ、私は光の量と色温度のことを考える。曇り空の午前十時、子どもたちはまだパジャマのままテーブルに座っている。ISO160という低感度は、三脚か、あるいは窓際の柔らかな自然光を要求する。その制約が、撮影者を部屋の中で動かす。光を探して体を移動させる、その行為が、すでに家族の観察になっている。
36枚という予算の感覚 ¶
デジタルで子どもを撮るとき、私は平気で三百枚を撮る。あとで選べばいい、という安心が、シャッターを軽くする。しかしPortra 160の一本は36枚だ。現像とスキャンを合わせると一枚あたりのコストは決して安くない。この「予算」の感覚が、撮影者の目を変える。三十六の窓しかないとわかっていれば、その一枚一枚に意図が生まれる。長女が祖母の膝に寄り掛かった瞬間、次男がスプーンで皿を叩いて笑った瞬間——その場面をファインダーで確認するとき、私は「これは使う一枚か」と自問する。この問いは、日常の中に潜む時間の重さを発見させてくれる。撮れなかった場面は、しかし脳裏に刻まれる。フィルムは記録しないが、撮影者は覚えている。
「待つ」ことが被写体を変える ¶
ある日曜の朝、私は台所の入り口に立ってNikon FM2を構え、十五分ほどそこから動かなかった。妻がコーヒーを淹れ、子どもたちが順番に冷蔵庫を開け、猫が椅子の上で丸くなった。私が動かないでいると、家族は私の存在を忘れる。それはデジタルでも同じはずだが、フィルムカメラには「撮っていないときの沈黙」がある。液晶画面がなく、確認の音もなく、ただレンズが台所を静かに見ている。被写体は、観察されていることに慣れる。その慣れが、ふとした仕草を解放する。Portra 160の粒子は、その解放された時間の空気感を、デジタルのそれとは異なる柔らかさで記録する。数値化できない差だが、プリントを手にするとき、その差は手のひらに感じ取れる。
現像から戻るまでの一週間 ¶
私が使っている現像所は東京・中野にある小さな店で、店主の佐藤さんは「Portra 160はEI100で撮ると影が締まる」と教えてくれた人だ。フィルムを預けてから一週間、私は撮影した場面を記憶の中で何度も反芻する。あの逆光の角度は適切だったか、祖父の手のしわにピントを置くべきだったか——答えはまだない。この答えのない時間が、実は写真との対話として機能している。プリントが届いたとき、記憶と現実のわずかな差異が、写真を単なる記録以上のものにする。撮ったはずの場面が少し違って見える。あるいは、まったく気づいていなかった光が写り込んでいる。フィルムは、撮影者が見ていなかったものを見ている。
Kodak Portra 160を選ぶ理由 ¶
Portra 160を家族写真に選ぶのは、その色の設計思想による。もともとポートレート用に開発されたこのフィルムは、肌色の再現において極めて穏やかなコントラストを持つ。子どもの頬の色、祖母の手の甲の静脈——そういったものを、過剰に強調することなく、柔らかく包んで記録する。ISO160という感度は、晴れた窓辺では1/125秒、F2.8前後という設定を導く。Nikon FM2の50mm F1.4と組み合わせると、テーブルの上のコーヒーカップから子どもの顔まで、自然な立体感のある描写が得られる。増感現像(プッシュ現像)は私は基本的に使わない。このフィルムは光量が少ない場面では素直に諦め、光のある場面で存分に鳴る——その正直さが好きだ。
Nikon FM2と「信頼」という言葉 ¶
FM2を使い始めて十年が経つ。電子部品をほとんど持たないこの機械式カメラは、氷点下の北海道でも砂埃の多い場所でも動いた。「信頼できる道具」という言葉はすぐに使いすぎてしまうが、FM2 については本当にそう思う。一番大切なのは、このカメラが「考えさせてくれる」点だ。露出計の針を読み、絞りとシャッター速度を自分で決める——このループが、撮影を反射ではなく思考にする。家族写真において思考の時間があるということは、その瞬間にほんの少し長く留まるということだ。デジタルのオートモードが悪いのではない。ただ、留まる時間の長さが、記憶の濃さを変える。FM2は、撮影者を急がせない。
フィルムで撮った家族写真が「古びない」理由 ¶
デジタル写真は、五年後に見るとき、ソフトウェアやディスプレイの進化によって「当時のもの」に見えることがある。しかしプリントされたフィルム写真は、それ自体が物質として時間を持つ。Portra 160で撮って、コダックのペーパーにプリントされた家族の写真は、二十年後も同じ色で机の上に置かれている——それが正確かどうかより、そう信じて撮れることが、撮影者の姿勢を変える。「これは長く残る」という前提で構図を決めることと、「あとで選ぶ」という前提で連写することは、撮影者の身体の構えからして違う。子どもの一歳の誕生日を記録するとき、その違いは静かに、しかし確実に、写真に出る。
フィルムカメラで家族を撮ることは、不便を愛することではない。撮る前の時間を、意識的に生きることだ。Nikon FM2を持って台所の入り口に立つとき、私はまだ何も撮っていない。だがすでに、何かが始まっている。